おしまいのはじまり。

仮通夜、通夜、葬儀。いろんなしきたりに面くらう。それでも私が感じるくらいには簡略化されているし、すんなりととどこおりなくいろんなことが過ぎて行った。大往生と言えば、あながち間違いではないので(晩年、ほぼ意識はなく自分のこともわからないくらいで、あらゆる管につながれてはいたが)おもに来てくれた人々も明るく思い出話をする。祖母はさばさばした明るい人だったのだ。笑いながら語られるそのいろいろなエピソードにそれでもぎゅーぎゅー来て、洗面所でひとり泣いた。そんな二晩が明けて葬式。よく晴れた冬の日。胸の上で組んだ手、花に囲まれた死顔、死に装束。さようなら、というよりも。おつかれさまとありがとうだな。思い出が胸に迫る瞬間はそれでも涙が止まらないけれども。そんな気分でひとり火葬場の外で煙を見てみたり。わたしはだいぶ大人になってしまったようだし、そりゃぁ祖母も死を迎えるはずだ。しみじみ。